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- 杉田智和 山月記 歌詞
- 杉田智和
- 山月記
山月記 中島敦 中島敦
此刻,月殘、光冷、露水侵濕地面,穿過樹間的冷風告知拂曉近了。 時に、殘月、光冷(ひや)やかに、白露は地に滋(しげ)く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。 每個人完全忘了事情詭異,肅然的感嘆詩人的薄倖。李征的聲音再度響起: 人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖(はっこう)を嘆じた。李徴の聲は再び続ける。 我曾說不懂為何遭逢如此命運,但仔細思量,也不能說是意外。
當我是人的時候,我避開了和人的交往, 何故(なぜ)こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依(よ)れば、思い當ることが全然ないでもない。 使每個人覺得我驕傲、自大。 人間であった時、己(おれ)は努めて人との交(まじわり)を避けた。 可是沒有人知道,那其實是一種幾乎近於羞恥心的心理。 人々は己を倨傲(きょごう)だ、尊大だといった。 當然了,曾是鄉里才子的我,不能說沒有自尊心, 実は、それが殆(ほとん)ど羞恥心(しゅうちしん)に近いものであることを、人々は知らなかった。 然而那可以說是一種懦弱的自尊心。 勿論(もちろん)、曾ての郷黨(きょうとう)の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは雲(い)わない。 我想成就詩名,卻不拜師學習、又不願和詩友切磋琢磨, しかし、それは臆病(おくびょう)な自尊心とでもいうべきものであった。 堅決不與俗物為伍, 己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨(せっさたくま)に努めたりすることをしなかった。 而這完全是我軟弱的自尊心和自大的羞恥心造成的。 かといって、又、己は俗物の間に伍(ご)することも潔(いさぎよ)しとしなかった。 我不敢下苦功琢磨自己,怕終於知道自己並非珠玉。 共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。 另一方面,以為自己或可琢磨成玉,所以,不屑和平庸的瓦片為伍。 己(おのれ)の珠(たま)に非(あら)ざることを懼(おそ)れるが故(ゆえ)に、敢(あえ)て刻苦して磨(みが)こうともせず、 我逐漸遠離世間,疏遠人事,結果在內心不斷地用憤懣和羞怒飼育著自己懦弱的自尊心。 又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦(かわら)に伍することも出來なかった。 各人的性情就像野獸,每個人都是自己的馴獸獅。 己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶(ふんもん)と慙恚(ざんい)とによって益々己(おのれ)の內なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。 我的猛獸就是自大的羞恥心,是老虎。我的羞恥心令自己受損, 人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に當るのが、各人の性情だという。 使妻子痛苦,也傷害了朋友,結果,我的外表變得和我的內在相稱了。 己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。 而今回想,我完全浪費了自己僅有的才能。 これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、內心にふさわしいものに変えて了ったのだ。 徒然在口頭上賣弄著什麼“人生一事不為則太長,欲為一事則太短”的警句, 今思えば、全く、己は、己の有(も)っていた僅(わず)かばかりの才能を空費して了った訳だ。 可事實是,完全是文人的賣弄,說穿了,不過是暴露自己才能不足、卑怯的危懼感和厭憎刻苦的懶惰罷了。 人生は何事をも為(な)さぬには餘りに長いが、何事かを為すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄(ろう)しながら、 比我更缺乏才具的人,專心一致的磨練後,堂堂成為詩人的大有人在。 事実は、才能の不足を暴露(ばくろ)するかも知れないとの卑怯(ひきょう)な危懼(きぐ)と、刻苦を厭(いと)う怠惰とが己の凡(すべ)てだったのだ。 成為老虎後的今天,我才總算看到了這一點。 己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。 每當念及此處,即便現在也感到胸口被燒灼一般的悔恨。 虎と成り果てた今、己は漸(ようや)くそれに気が付いた。 我已經無法再過人的生活了。 それを思うと、己は今も胸を灼(や)かれるような悔を感じる。 己には最早人間としての生活は出來ない。
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